株式会社ハニ 代表取締役社長 羽仁正次郎 氏
掲載号:「中小企業かごしま」2009年12月号掲載
業界に入るきっかけは
私が高校を卒業した昭和32 年は、まだ、鹿児島県内にも進駐軍の無線基地があった時代で、日本車ではスバル360 が翌年にデビューした頃です。当時、車はまだまだ庶民には高価な買い物でした。
私は、小さい頃から車が好きで、高校を卒業したら自動車関係に進みたいと漠然と思っていたのですが、自分で外車の販売をしたいと両親に告げた時は猛反対を受けました。高校の先生にも「そんな馬鹿なことはやめろ」と反対されたのですが、ただ、自動車が好きというだけでこの道に飛び込みました。
当時を振り返ると無知でこわいもの知らずだったと思います。
外車販売で苦労されたことは
とにかく、高校を卒業したばかりで資金もない、コネもないわけですから、自分で動くしか稼ぐ方法はないわけです。
当時、住んでいた近くにアメリカ人の宣教師の方がいまして、その方に英文の紹介状を書いてもらい、九州各県の進駐軍のベースキャンプを回りました。「FOR SALE」の張り紙があれば、デッサン帳に車をデッサンし、車番号を控え持ち主と交渉するわけです。
流暢に英語が喋れるわけではないので身振り手振りで交渉しました。それでもなんとか通じるもんです。しかし、同じようなことを考える者がいまして、当時、1台の車にブローカーが5人も6人もいた時代です。競争は厳しかったですが不思議に辛いと思ったことはありませんでした。やっぱり車が好きだったんでしょう。
それから、交渉が成立すると持ち主を鹿児島に連れて来ることもあり、購入希望者に引き合わせるわけです。カタログ一枚も入手できない時代ですから、あらかじめデッサン帳にデッサンした車の絵が大きな威力を発揮しました。
買主は高価な買い物をするわけですから実際の車がどんな車なのか心配します。そこで、車のデッサンを見せると買主は安心し交渉がスムーズに運びました。それでも年に数台売れればいいほうでした。1台が百万、二百万円以上しますし、当時5万円もあれば家屋敷が買えた時代です。
しかし、いざ車を運んでくるとなると大変な苦労をしました。当時の国道3号線、特に県境の峠道は舗装されておらずデコボコ道が当たり前でした。
米国車はクッションが柔らかく、底をすり、ときどきオイルパンが破損しました。そんな時は自分で修理し、やっとの思いで運んできたことを憶えています。
業界に携わって思うこと
外車の自動車販売に携わるようになって50 年以上経ちました。
とにかく車以外のことはしたくはありませんでした。
グループ企業に、タクシー、自動車学校等がありますが、自動車販売業界を取り巻く環境は大きく変わろうとしています。
若者の車離れ、少子化、高齢化等による購買力減少、ガソリン車に代わる電気自動車の出現などこれからまだまだ時代が変わっていきます。
しかし、自動車販売業界はなくてはならない業界です。最近はお客の方が情報を先取りし車のことをよく知っています。
営業マンには「しゃべりすぎず腹八分で話をしろ」と言います。それが今の時代に合ったセールスのやり方ですね。
『世界が注目する「ハニ・クラシックカー・コレクション」』
クラシックカー、ヴィンテージカーコレクションの世界で羽仁正次郎を知らない人はいないほど、世界中にその名は知れわたっている。
コレクションは500 台以上を数え、アメリカ以外には4台しか存在しないといわれる「タッカー・トーピード」をはじめ数々の名車を保有している。驚嘆すべきは、単に保有するだけではなく、すべての車が動かせる状態を保っていることだ。
「クラシックカーはまさに生き物です」と語る羽仁氏の車に対する並々ならぬ愛着ぶりがうかがえる。
自宅応接間には30 台以上のクラシックカー・ヴィンテージカーが所狭しと並び、仕事が早く片付いた日など自ら車に語りかけ、磨き、時には整備することも。
「本当のところ、昔の車は手が掛かります。手をかけるほど愛着が湧くものなのです。車の喜ぶ顔が私には見えるようです」と言う。本当に車が好きでないと出てこない言葉だ。少年時代の思いがクラシックカーの蒐集として凝縮されたといってよい。
「将来は、ミュージアム的な施設でクラシックカーを多くの方々に観て楽しんでいただきたいですね」と夢を膨らます。
今も年に数回、海外のオークションに出かけ、蒐集家と旧交を温めるのを楽しみにしている。
著書に「HANI C lassic - car Collection 20 世紀の自動車」(2004 年12 月初版)がある。