株式会社 末吉建築設計事務所 代表取締役社長 末吉重榮 氏
掲載号:「中小企業かごしま」2010年4月号掲載
建築設計士になろうと思ったきっかけは
高校2年の時、将来の進路について、悩んでいた時、テレビで、世界で活躍する建築家を紹介する番組がありました。その時の建築家は、島に家を建て、事務所までモーターボートで通うという生活でした。それを観て、「自分もいつかあのような仕事をしてみたい」と思い、建築設計士になろうと決心しました。もともと、工作、絵画等に興味を持っており、中学の時には、工作クラブに所属していましたので、自然の成り行きだったのかもしれません。たまたまテレビ番組を観たことがこの道に入るきっかけであり、将来の進路について決意させてくれたのだと思っています。
独立は何歳のころですか
夢を実現させるべく、地元大学の建築学科に入ったわけですが、理想と現実のギャップに授業が全然おもしろくないわけです。ちょうど二十歳の誕生日前だったと思いますが、家出同然で大阪行きの夜行列車に飛び乗りました。大阪では、食うために土木建築の飯場、運送会社で働きました。しかし、食うだけの毎日の繰り返しに、「これでいいのか」と自問自答していたある時、世話になっていた人に諭され、結局はまた鹿児島に戻ってきました。卒業するまで1年余計にかかりましたが、この時の経験は決して無駄ではなかったと思っています。
大学を卒業後、京都の設計事務所に就職し、33歳まで10年間勤めた後、帰鹿しました。今から思うと無謀だったと思いますが、帰ってくると同時に独立しました。普通は独立するまで設計事務所に勤め、地元の状況を把握してから独立というのが一般的ですが、私はあえてこの道を選びました。というのも、京都で10年間経験を積んできましたので、何とかやれるだろうという思いはありました。しかし、最初の1年間は仕事がとれず下請け中心でした。そのうち、同窓会、友人関係の紹介で徐々に仕事が入るようになりました。
ちょうど、高度成長期の頃で時期もよかったのだと思います。今後も、お客様に対し、よりよい空間を提供できるよう誠実な企業であり続けたいと思っています。
現在の建築設計業界について
公共投資の抑制、コストの圧縮の他、世界的な金融恐慌の不況感で、建築設計業界も厳しい状況にあります。仕事量が激減した上、平成17年の「耐震強度偽装事件(いわゆる姉歯事件)」は、業界のイメージを大きく損なわせました。この事件を契機に、建築基準法等が改正され、着工前の確認申請が厳格化されました。また、中国四川省の大地震を受け、平成20年に「改正地震防災対策特別措置法」が成立し、公立小中学校に対する耐震強度調査等の支援措置が強化されたところです。ただ、県内で資格を取得している建築士は1級、2級合わせて2,400人程いますが、大型建物の構造計算を手がける建築士は数が限られていますので、耐震構造計算が可能な建築士の養成を急ぐ必要があります。
一方、高度成長期の建築物が、築後40年を経過し、膨大な量に達しています。少し前までは、「スクラップ&ビルド」を繰り返し、新しく建て替えることが良いとの風潮がありました。しかし、地球環境重視の観点から、既存の建物の資産価値を長期にわたって維持し、社会的資産として有効に活用する「メンテナンス・リニューアル」に注目が集まっています。建物を安全で美しく蘇らせ、いつまでも活かして使っていくことこそ、持続し続ける社会のため、今私達が取り組まなければならないことだと思っています。
県建築設計監理事業協同組合理事長(当時)として組合のPRをお願いします。
昭和60年3月、県内の建築設計事業者51人により建築物の設計及び工事監理の共同受注を目的に設立されました。
設立以来、官公庁関係の建築物を数多く共同受注してきましたが、特筆すべきは、平成3年に「鹿児島県庁舎」、10年には「県民交流センター」等の大型プロジェクトの基本実施設計をJVで受注したことです。
また、平成4年には、中小企業庁(九州経済産業局)から「官公需適格組合」の証明を受け、官公需の受注した案件は、十分責任をもって納入できる経営基盤を整備しました。
近年、景気が大きく落ち込み、地方自治体も財政状況が厳しい現状にありますが、国の経済危機対策に基づく耐震化事業の拡充や県の耐震改修促進計画により耐震関連業務の受注額が大幅に増加している状況にあります。これからも、時代のニーズに合った組織づくりを目指し、地域経済、社会の発展に寄与していきたいと考えています。